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何もない一日

昨日は特に特筆すべきことのない、何もない一日だった。

でもそもそも何もないとは何なのか?

印象にない、イベントがない、苦も無く楽もない、可もなく不可もない。いろいろと定義づけできそうではあるが、よくよく考えると決して何もないわけではない。例えば朝っぱらからめんどくさい電話が鳴ったり、抱えていた難しい案件がほとんど終わったり、お客さんとサウナ話で盛り上がったり・・・なんだ色々あったじゃんと思ったりする。

でもなんで何もないと思うのか?それは心の動きが少なかったことによるのかもしれない。感情が揺さぶられてストレスがかかり耐え難い苦痛を伴ったり、逆に達成感がありとても晴れやかな気分になりそこからの喜びを得られる。そんなことがあるからこそ人の印象は形成されるのかも。

例えば仕事でとんでもないミスをやらかし上司からねちねちと苦言を呈され。関係各所に平謝りした日のこと、今でも胃痛を伴ってはっきりと思い出す。

でも逆にうまくいくかどうかもわからない難解なタスクに挑戦し、手探りで歩いて転んで失敗しつつも、何とか最後までやり通し結果としてうまくいったあの仕事のことは、今でも大きな安堵と達成の喜びを伴って想起できる。

そして引きこもり時代のあの暗く深く絶望した代り映えのない日々。裏を返せば何もない日々の繰り返し。あの終わりなき監獄の中で好転などすることなどないだろうと、ただただおびえ、後悔し、終わりだけを望んでいた日々。あの頃の感情は今でも多少客観的になったとは言え、はっきりと思い出すことができる。

何もない、代り映えのない、でも絶望に向かって突き進んでいるという漠然とした恐怖。やっぱりそういう感情を伴った体験が、日常の生活に種々の彩をくわえるんだろうなって思う。

だからとりあえず曲がりなりにも社会復帰できたわけだし、つらく苦しいことも、楽しく笑えることも、どちらも同様に等しく体験していき何もないなんて日を極力減らしていって、張りのある生活を送っていきたいなーなんて思ったわけです。