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引きこもりという手段

野球にバットを使うように、レースに車を使うように、料理に包丁を使うように、引きこもりという手段も長い人生の中で用いられる一つの手段であると思う。

例えばどうしようもなく心が乱された場合人は回避行動をとるだろう。例えばボールが飛んできたなら頭を下げるし、車がよって来たら道の恥に体を寄せる。物理的回避と同じように引きこもりも一つの手段の実行なのだ。

例えば私の場合は肥大しきったプライドが音を立てて破裂し、そのかけらや衝撃が心を必要以上に傷つけぬよう心を小さく折りたたんで、底の底へと隠しあまりにも深く沈めてしまったために自分の進むべき方向も見失ってしまった。

そしてその見失った自分が再び浮かび上がり、社会の荒波にさらされるのをよしとするために6年かかった、それだけのことなのだ。

いま思い返すとあの方法が最善であったかどうかはわからない。ただあの時の自分にとってあの手段は決して見当外れでもないし、ある種好ましさも含んだ手でもあった。まあこうやって社会に復帰できた今だからこそいえる話でもあるとは思うけど。

ただいくら多様性が尊重される現代とはいえやはり引きこもるという行為は、身近な人間からも離れた社会からも決して理解も納得も容易に得られることはないのだろう。テレビや創作物における引きこもりの描かれ方も決して好ましいものではないですしね。

まあそんなことを思ってつらつら書いてみたわけです。